2017年7月21日金曜日

この身北の原野に朽ちるとも 依田勉三

 この身北の原野に朽ちるとも―十勝野開拓の祖・依田勉三物語 単行本 – 2012/12 福永 慈二著・単行本: 613ページ・出版社: 日本文学館 ・ISBN-10: 4776533391

  依田 勉三(よだ べんぞう、1853年6月21日 - 1925年12月12日)は開拓者。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率いた。
   依田勉三の本はいくつかある。参考文献をしめし、歴史事実に関して裏付けのあるストーリーになっている。 

 物語性があり作品としても素晴らしい。高等教育をうけた、明治の依田勉三のような人物が現在の北海道の農業従事者に求めたい。


 帯広のトンドン、六花亭のマルセイバタサンド・ひとつ鍋など、晩成社とかかわりある事柄も知ることが出来た。
主な本:呼ぶ声―依田勉三の生涯 (上・下巻) (潮文(230))1984/10 松山 善三、依田勉三と晩成社 単行本 – 2012/3/10井上 壽 (著), 加藤 公夫 (編集)
 

2017年5月3日水曜日

山ほほ笑む 酒谷山

2017/5/3 酒谷山
ルート図
*農道終点に駐車(車寄せのspaceほぼ2台分あり)。牧場を森林の方向へほぼ直進する。

*◎の箇所にトドマツ孤立木あり。ここのササを押し分けると作業路跡(北電作業路跡?)が見つかる。

→印の作業路に沿って送電線下の酒谷山直下まで地形をうねりながら上る。

*途中、標高400mを越えるあたりで作業路を横断する林野庁管理の境界管理歩道がある。

*頂上直下が草地の鉄塔広場(格好の山座同定の広場)。

*鉄塔下草地と山頂への傾斜変換のコンター430に沿って良く管理された歩道(奥津内川と酒屋川を結ぶ)がある。


1↓ 山頂直下の送電線鉄塔敷地内(下図の草地)から見る酒谷山(標高差ほぼ20m)。
草地と笹生地の間に良く管理された歩道がきれいに整備されていた(奥津内川から酒谷川へ尾根を横断する歩道であろう)。
国縫層の角礫岩が発達する地域で、地形にもそんな様子がうかがえた。


2↓ 酒谷山の山頂表示板。4本立ちのエゾイタヤに括りつけられていた。
書体の世界は分からないが、宮沢賢治の童話の世界を思い浮かぶ、親しみ持てる書体だった。
山頂部は繰り返し伐採されたと思われ、ブナは全く見当たらなかった。


 
3↓ 山頂の二等三角点、点名:酒谷山。 刈り払われ分かりやすくなっていた山頂にしっかりした標石が埋設してあった。
このような藪山も登る人が多くなってきた様子で、鉄塔下の草地からの先に、尾根に沿ってチシマザサの踏み分け道が見つかった。


4↓ 山頂の南尾根側:頂き標識を括りつけた数本の株立ちはエゾイタヤ、周りはアブラホのほか殆どシナノキが多かった。下層はキシマザサ。




 
5↓ 山頂の東尾根側:シナノキ群の奥にコブシ咲く。




 
6↓ 山頂の北側尾根:ダケカンバが木立を作っていた(直下は鉄塔広場)。古い二次林と思われた。



 
7↓ コンター430に沿って奥津内川と酒屋川を結ぶ良く管理された歩道があった。その歩道の肥沃斜面に立つシナノキに着生していたオシャクジデンダ(冬緑性の樹上シダで、夏に枯れ針葉を展開する。葉は硬くない草質。オシャクジは、乾燥時の形が杓子を連想することからと思っていたが、木曽の社貢寺からだという。)




 
8↓ 二等三角点らしくその山座同定を思うままにかなりの時を楽しめた。
左から冷水岳、白水岳、臼別頭、ユーラップ岳、太櫓岳。 いわゆる熊石アルプス。
手前には雪解け進み残雪がまだらな岩子岳、ペンケ岳。



 
9↓ 後志と渡島・桧山を界する狩場山。右へカスペ岳、メップ岳、カニカン岳、点名:利別Ⅱ、長万部岳。


 
10↓ 左から点名:利別Ⅱ、カニカン岳、長万部岳、二股山、離れて白いテーブルは黒松内岳。 まだ浅き緑の八雲平野は春耕の繁忙期。




 
11↓ 長万部岳、二股山、黒松内岳。ダケカンバの前にブナの冬芽が大きく膨らんでいるのが分かる。新緑はすぐそこにある。冬芽のふくらみ状態から花芽のふくらみとみて間違いないであろう。ブナは種子をたくさん着ける豊作の年になりそうだ。




 
12↓ 後志と桧山を界する茂多岬から狩場~利別Ⅱ。手前の緑なす平野は八雲平野。




 
13↓ 駒ヶ岳。右端の山は?濁川カルデラの外輪にある毛無山?。



 
14↓ 右端が狗神岳。




 
15↓ スタートの牧場から展望する噴火湾越しに目国内岳~尻別岳の峰々。草地の左側に農道終点が見える。




 
16↓ 牧場を介して農道終点の反対側にトドマツ孤立木あり、ここのササを押し分けると作業路跡(北電作業路跡?)が見つかる。





 
17↓ 牧場から前方の疎林の中に作業道が現れた。送電線工事のときに作られた道なのであろうか。維持修理等の手入れもされていないようだが道の傷みは少なかった。傷みの少ない路面、崩落個所もほとんど無い。穏やかな地形が遠因と思われた(国縫層角礫岩)。 




 
18↓ シュリの針葉。開花時の赤みはすでに薄れて新たな生活のステージを迎えていた。




・どちらを向いても山ほほ笑む:山笑うは春がもっと進んだころであろうか。とすれが「山ほほ笑む」がよろしいか?
山笑うは「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如く」に拠るとされている。

2017年4月25日火曜日

茂刈山 2017.4.23

2017年4月23日:上ノ国町の茂刈山へ行ってきました(三度目)。

頂には山頂標識がありました。新しく立派に彫刻された黒色塗装板の標識が立てられていました。

標識から北北東に離れて三角点(地理院)と図根点(山林局)が、ほぼ子午線上に2mと離れずに近接して発見できます。

低山で幅広い緩斜面が広がる山頂でしたが、山頂標識よりわずかに高い北北東方向にその標石があります。ここ茂刈山はレアな三角点標石のある山として、全国の三角点ファンによく知られているらしい。
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その点名「茂刈」は「小等三角点」と呼ばれるものであって、三角点の誕生の由緒、地理院での管理のされかた等がとても「珍しい三角点」だそうで、三角点ファンには話題になる見逃せない標石のようです。
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近年地形図の管理・発行システムが替わりました。以前の地図には、
①:茂刈山の表記と併せて標高の表示は実測を伴った点として小等三角点の測量成果から「・382.6」と0.1mまで記載されていました。
②:茂刈山に至る歩道(古い歩道)の幾つかの路線が記載されていました。
これら①・②は現行の地形図には掲載されていません。山を歩く者にはチョット寂しく感じます。

(参考)茂刈山に至る歩道(古い歩道)は1950年代の20万の地質図にも載っています。上ノ国から茂刈山~八幡岳~厚沢部町館町沼の沢に続いていました。高い山はないとはいえかなり長大な尾根道です。何時頃開通し使われたのは何時頃までであろうか。
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さらに地理院提供の基準点成果を開くと、従来は測量成果を閲覧できました。今回そのウエブサイトを見ると、点名「茂刈」は「処置保留」と記載され、経緯度等の成果は閲覧できないようになってしまいました。経緯度が分からなければ標石の探索はますます困難になります。これも山を歩く者にとっては寂しい限りです。
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 2009年04月17:道南の三角点探訪に来道したTakayさん(東京在住)に同行した時には、三角点と図根点の標石をすぐに見つけられました。今回は探索にチョット時が必要でした。三角点も図根点もササに覆われていたからです。
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これからは標石の探索はますます困難になるのではないかと思います。基岩が浅く現れ、風衝地のようで、さらに基岩は風化しにくいチャートだから土地生産力はかなり低い場所です。森林へ遷移するにはかなり長い時間がかかる土地です。しかしササはもっともっと密度高くなりササ草原が長く続くと思われます。

そのためもあるので、2009年当時の地理院提供の成果閲覧で得た経緯度等をここに記載しておきます。
【三角点】・基準点コード TR86240514301」「点名 茂刈」種別等級 「小等三角点」 冠字選点番号 「栄4」 地形図 函館-上ノ国 緯度 41°47′20.8322経度 140°10′27.1972標高 382.61 m(X) -245580.85 m(Y) -6298.368 m現況報告なし 所在地 北海道桧山郡上ノ国町大字上ノ国 

・<小等三角点の解説は→【五等三角点のほか、三角点と名前のつく変わりものの測量標石では小三角点があります.1911年(明治44)北海道庁から陸地測量部に要請があり設置された基準点で渡島半島南部(函館の西)に30数点ありました.現在もまだ数点残存しており国土地理院のデータベースでは「小等三角点」として整理されています(上西 勝也)】> 

・<なお、地形図上の表示は、小等三角点の位置に三角点「△」の表示はない.現地測量による標高点「・382.6」として表示されていた.→さらに、小等三角点「茂刈」から距離474m 方向333.70°に、同名の四等三角点「茂刈」冠字選点番号 「長16」がS31.08.10に設置されていた>

・<小等三角点に並列して林野庁が設置した「山」と刻まれた図根点「12」があった.図根点の一般的説明は→【図根点は「図等三角点」ともいわれ周囲の三角点から観測し実際の三角点上では観測しないという前方交会法により位置を決定したものです.これは無線鉄塔などで構築物上で測量することができない場合につかわれますが精度は低くなります.本来、図根点は三角測量のあとの細部の測量につかい標石の埋設はせず、その位置が測量によりはっきりすると、すぐ測板上の図面に移してしまいます.標石として設置されるのは重要な場所や再現が必要な場所に限られます.図根点標石の設置は1940年、50年代が多かったのですが現在はありません(上西 勝也)】>

 標石の様子 2015年4月26日
◆山頂標識から北北東方向の小高い場所に標石がある。
◆小等三角点と図根点はほぼ子午線上に並び間隔はほぼ2m。

・ 2015年4月26日時の小頭三角点(北海道の刻印が見える)
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・下図の白色の矢印は2015年4月26日時の図根点 「山」・「図根点」と刻字。

2015年04月26日 - 茂刈山

2009年04月17日 - 茂刈山
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2017年4月23日の写真
・1小等三角点




 
・2図根点(山林局)

 
・3頂きのチャート


 
・4チャート背景の開花さかんな妖精

 
・5山道の硬い石

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・9七つ岳(中ノ沢源流)  以下工事中
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2017年4月10日月曜日

伊勢鉢山、当別丸山天測点の子午線標

9/4:伊勢鉢山、当別丸山天測点の子午線標

道道の茂辺地~館線の冬季通行止のゲートが戸田の沢分岐に設置されていた。道道の通行止めゲートは、以前からここより3㎞奥に入った西俣の入り口に設置されていた。今回計画した袴腰山の登山口もそこにあったから、とても愕然としてしまった。

舗装路を一時間のアルバイトに意見が分かれたが、常套句の「舗装路歩くのは辛いな~」のひと声に流された。やはり安きに流れ、代わりの案が出された。

茂戸地川の戸田の沢分岐から下流にある当別丸山の子午線標を探索すること。大釜谷の低山伊勢鉢山に登ること。この二つの代替え案の提案に、伊勢鉢山は登山の対象になる山なのか(?)との声も上がった。

計画の中止や、変更はいいが、代替え案にない行動は時に事故につながることがある。…栃木県高校生登山学習時の雪崩遭難で死亡事故を起こした時の、山岳遭難の詳しい登山関係者の意見。まだ新しい事案だったので……に聞こえてきた。

* 。。。子午線標へタッチの記録。。。
◆当別丸山一等三角点(地理院基準点成果)
東経140.55011633°(140°33′004”) 北緯  41.7454°

◆子午線標(茂辺地川左岸)(HMC:スマホGPS読取り)
東経140.5501°(140.33’003”) 北緯 41.8002°

◆当別丸山の天測点の経・緯度は調べていないから、それと対比できない。
 また三角点から天測点方向への方位・距離は不明。

当別丸山の三角点と比べると、東経にして0.1秒(ほぼ±3m
子午線票は天測点の真北に設置されている。
GPSの精度は±5m程度とすると、まずまず真北に「子午線標有り」とする事柄は満足。
。。。
* 子午線標
*マニアの立てた表示板↓*





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 全体の大きさ


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