2007年6月17日日曜日

ユーフレ川本谷 (芦別岳)

’07.06.17 あしべつだけ1726.5m(点名:礼振岳れいふれ1726.47m)ユーフレ川本谷 :岩と雪のユーフレ川本谷:心の奥深く残る味わいの石造りユーフレ小屋に泊る。

【日程】:【2007年6月16日(土)~17日(日)
メンバ:LUrusi Katao Aoya Turuo Takah

【ルート】:【旧道コース登山口→ユーフレ小屋(泊)→ユーフレ川本谷→芦別岳→新道コース→覚太郎コース→ユーフレ小屋→旧道コース登山口】

【行程】:・【6月16日(快晴):函館(5:00)→富良野太陽の里(12:30)→旧道コース登山口Co390(13:50)→ユーフレ小屋Co620(16:10)泊】
・【6月17日(快晴):ユーフレ小屋(5:00)→ゴルジュCo690(:6:00)→インゼル沢出合いCo790(7:15)→Eルンゼ出合いCo950(8:00)→第3稜取付きCo1130(8:45)→第1稜取付きCo1300(9:05)→雪渓最終分岐Co1500(10:05)→頂上直下北尾根のお花畑Co1645(10:50)→芦別岳山頂・1726.9(11:30)】
・【芦別岳(12:15)→雲峰山Co1565(12:40-13:00)→半面山・1377(13:26-40)→鶯谷(覚太郎コース分岐)・1107(14:10-32)→ユーフレ小屋(:15:00-16:00)→旧道コース登山口(17:50)→夕張清水沢(22:00)→〃(18日6:00)→函館(11:00


三角点】:点名 礼振岳(れいふるたけ) 等級 二等三角点 地形図 夕張岳-山部 WGS84緯度 43°14′08.6292経度 142°17′00.7908 標高 1726.47 m平面直角座標系(番号) 12(X) -84904.978 m(Y) 2725.189 m所在地 富良野市大字山部無番地71林班ト小班 点の記図 埋標明治44年6月11日 AY00043S:J1UpXp】


コースの地質】:約1億5000万年のジュラ紀後期~1億年前の白亜紀前期に形成された玄武岩類で、北海道の白亜紀層の基盤基盤を形成している。

【山行記録】ユーフレ川本谷→芦別岳(1726.9 m)


 心の奥深く残る味わいの石造りユーフレ小屋: 岳人に人気のあるユーフレ川本谷。6月上中旬は、滝のかかったゴルジュが雪渓の下に埋まっているか否かが話題になる。それは滝のかかったゴルジュを難なく通過できるか、または困難な高巻きを強いられるかを左右するからだ。2週間前は残雪に埋まっていたと言うが、まさに6月中旬の今回は、案の定ゴルジュの中に滝が落ちているのが見えた。困難な高巻きの後の本谷は、雪渓に穴が開いていたため、危険な渡渉を数回繰り返し、インゼルが見える所でやっとアイゼンを装着することができた。本谷の源頭部は、足もすくむ急登で、堅すぎる雪だと恐ろしくて登れないところだ。この度の雪渓は適度に締まり、アイゼンはしっかり雪面を捉えてくれた。


  ユーフレ川本谷は"褶曲型の岩山…鋭く立った見事な男性的風貌"、"岩壁をめぐらす鋭いアルペン的魅力…で人気"などと紹介されている。はじめて入山する私は、期待に自ずと心高ぶっていた。登山口は、「山部自然公園・太陽の里」からもう少し行くと林道の終点が車数台分の広場になっている。明日の登頂後は、ユーフレ小屋に戻るとは限らない。新道コースを降りる場合も想定しなければならないから、全荷の行動に耐えられるように、荷は必要最小限にとどめるべくザックの中身の軽量化を図った。余分な物は登山口の車に残した。



  ユーフレ小屋への4kmほどの山道では、急峻な山脚のアップダウンに大汗をかいた。道沿いのオヒョウを主とする森の林床は、あれこれの植物が露出する岩礫に次々と現れて、その道程を飽きさせない。ユーフレ小屋は、熊ノ沼沢が出合う小さな広場にあって、増水時には一気に流水に持って行かれそうな川原地形だが、"蛇篭"でしっかり整地し、谷の床がためをした上に小屋は建っていた。ダケカンバ、ヤチダモ、ヤマハンノキの若い林に囲まれた夕日の中の石造り小屋は、心の奥深く残る味わい深い風景だった。LU氏が、家族だけで小屋泊したときの怖い恐い夜の話で早めに眠りについた。



  朝は4時に寝袋から出た。深い谷間と朝霧で、夏至近しの朝だというのに期待した明るさはない。寝袋などの装備は、帰路に覚太郎コースを降りて撤収することにして、軽めのザックを担いで小屋を5時に出た。すぐ前方に峨峨たる岩峰が見えてきた。岩峰がものすごい高さで行く手を立ち塞いでいる。その岩は、朝日に明るく輝いて今日は申し分ない天気であろう。ほどなく現れた谷壁に、青柳氏が指呼したミヤマオダマキを見た。驚いたことに高山で見慣れたその草丈と違って、30~40cmもあろうか。興味ぶかいことに600m程度の標高なのに、いくつかの高山の植物が岩場にねっぱっている。1時間ほどでうわさのゴルジュ。ゴルジュの雪渓の中を覗くと、ゴウゴウと滝が落ちている。



  ここの高巻きをクリアーするために、函館山や庭の木でセルフレスキューの技術訓練をやり、手足や身体の動きを覚えてきた。ブルージックをとって、ゴルジュの手前の取付きからフィニッシュ地点まで慎重に高巻いた。降り口にはうずたかい雪渓が幸いして、ゴリュジュの高巻きはなんなく通過できた。フィニッシュ地点の最後の足場がやや不安定だったが、間違えば岩と雪渓の間に振り落とされてそのまま滝に落ちていく場所だ。経験豊かなA氏が転落者をガードする姿勢で滝の上の雪渓の上に立ちはだかって待機してくれた。高巻きは、最後まで全く不安はなかったが、やはりあくまで慎重でなければならない高巻きだった。
 

  ゴルジュを越えて、LU氏とA氏はひんぱんに雪渓の端っこをピッケルで破壊したり、覗いたりしてその強さや厚さを測っている。雪渓に穴が開いた所では、経験者の彼らは手抜きをしない。左岸や右岸のヘツリや、足早な渡渉を数回も繰り返した。




  インゼルの手前Co790に到ってようやくアイゼンを着けることができた。インゼルの後方の谷を直角に右折しすぐ左折すると、いよいよCo875から急登の雪渓がはじまる。谷壁はピカピカ磨かれている。いよいよ本谷の核心部の風景だ。
 

  Co950Eルンゼ出合いあたりからCo1250三股までは、広々としたU字状の谷だ。氷河地形のU字谷なのであろうか?ビューンとくる落石の心配もなさそうだし、てかてかに磨かれた岩壁や見上げる岩稜を心ゆくまで目に焼付けながら、アイゼンを効かした。




  Aルンゼから、まことに天を突く急斜面の雪渓に突入する。一歩一歩、慎重にビビル心を押さえながら進まなければならない。確かな足取りで、先を行くTu氏のアイゼン痕だけが頼りだった。"ラク~!" でかい石が雪渓を転がり落ちていく。第1稜の右に沿って雪渓を行くが、ここは「落ちても下にいる我々でも受け止めることは出来ない」と両経験者は登頂後に経験談として述べた。ピッケルを雪渓めがけて懸命に刺す。堅く詰まった雪は、石突きが埋まる程度しか刺さらない。しかし、アイゼンはしっかり食い込んみ効いて心強い。これ以上雪が堅ければ、私はビビッテしまって動けなくなるだろう。雪渓の終点近くの左側に岩礫が積み上がった凸部が見えてきた。岩礫地は転倒しても、身を伏せれば止まる。岩礫が、雪渓に比してこれほどビビル心を和らげてくれることかと思えた。




  ルートファイテングは、インゼルあたりから油断できなかった。分岐する雪渓の大きさは、必ずしも流域の広がりを示さないからだ。一本調子のように見える本谷といえども、雪渓歩きは確かな地図読みが求められる。LU氏の丁寧な地図読みが、第1稜西端の源頭部最後の岩石の積み上がったガレ場をも地図上の凸部に見つけてルートどおりにお花畑に飛び出た。その地図読みの姿におおいに学ばされたことだった。アイゼンを外しながら、お花畑で緊張から開放された5人は、感動を分かちあった。そよ風が心地よく心を満たしてくれた。感動を共有するセレモニーに入ろうとしたとき、岩頭から声がかかった。新道コース組からだった。予想外の、ほぼ同時の登頂時刻だったから驚いた。急いで頂上の彼らと合流を果たした。ツクモグサの花は終期であったが、頂上直下の岩場はチシマアマナの花が咲き乱れ、清楚な小さな白い花は玄武岩質の重厚な色合いの岩壁によく映えていた。岩壁の中の、白みを帯びた葉脈が明瞭な葉っぱのエゾルリソウも、花芽が立ち上がろうとしていた。間もなく開花であろうか。




  遙かトムラウシ、ニペソツも指呼できた。夕張山地から日高山脈が遠望できた。時間の許す限り眺めていた。おおいに満足した心は、帰路の身をも軽くしてくれた。新道コース沿いは、やさしい柔らかな緑のウラジロナナカマドや深紅の雌花のミヤマハンノキが花街道となって目を楽しませてくれた。新道コースからの分岐、鶯谷から覚太郎コースを"転がり落ちる"ように降りる。急な尾根の歩道だがよく整備されていて、作業者の苦労を思った。木霊して近くに聞こえる沢の音にだまされ、なかなか谷底のユーフレ小屋は遠かった。

 

  "立つ鳥痕を濁さず"小屋を使用前に戻して、何時かまた訪ねたいなつかしい小屋を後にした。アップダウンを繰り返す急斜面のトラバースを心おきなく楽しんだ。沢の流れに沿ってカワガラスが飛翔する。腰を下ろし一息入れた道端にクシロワチガイソウが群生していた。"まちがいそう"な道はもうない。経験者を待たずに登山口に急いだ。




1:うわさのインゼル
:在りし日のインゼルは「テッペンに一本の若いダケカンバが立っている」 :その時期のユーフレ小屋の写真は「けして木に覆われいない」 :森林の遷移にしたがって風景は趣が異なってくるのはあたりまえか




2:U字の谷が続く:1000m付近:谷壁が豪快にピカピカに磨かれている


3:天を突く源頭付近の雪渓:中央の黒い斑点は落石の道:1500m付近を行く


4:雪渓の本谷澤頭を越えて旧道尾根に飛び出る


5:噂のうわさの夫婦岩のXルンゼ :雪渓が破れて右下に滝が落ちるのが見える :左はインゼルの沢


6:第一稜の頭:芦別岳頂上の西側数十メートル


7:経験者が本谷1500m付近から挑む岩稜「第一稜」の上部。手がかりはいっぱいありそうだが、はげ落ちそうな塊が見られ油断できない第一稜なのであろう:本谷源頭部の1600m付近から岩稜越しに→遙かな山「左奥にトムラウシ、右端にニペソツ」


8:ハイマツ、ミヤマキンバイ、チシマアマナ、ツクモグサ ショウジョウスゲが岩壁に張り付いていた。エゾノハクサンイチゲも開花終期であったが残雪の影響なのであろうかそこにあった。これも芦別岳の風景だ。:芦別岳頂上の旧道側の岩場→玄武岩の岩場の礫の様子


9:ツクモグサの開花終期は、ゴルジュが開く時期といっしょなのであろうか。本谷を第一稜の脚部に沿って源頭部を詰めてコル状のお花畑に飛び出す。旧道を伝って急峻な岩場をいっぱしの登山家の気分で三点支持で頂きに向う



 シームレス地質図では、→「約1億5000万年のジュラ紀後期~1億年前の白亜紀前期(J3-K1)に形成された玄武岩類(苦鉄質火山岩類)で、北海道の白亜紀層(空知層群)の基盤基盤を形成している」

 地質図(1953年橋本至)を見ると、このあたりは先白亜系:空知層群:芦別岳輝緑凝灰岩層にあたり、芦別岳付近から地獄谷及びユーフレ沢中流で、岩質は主として輝緑凝灰岩、輝緑岩質集塊岩、輝緑岩溶岩で、最後のものは各地に見事な枕状溶岩の露出を示すものを含み、量的に一番多い。もし断面が中心を通る場合ならば車軸状-車石状-を呈する。岩石学的研究は鈴木醇により下金山-金山間のものが発表をみた。当地産の各標本も同教授の研究に委ねてある。層厚は芦別岳付近では1100~1200m前後と見積もられる。


 さらに枕状溶岩の産地はすなわち芦別岳三角点(20mほど南は集塊岩様)、同地東方の雲峰山から地獄谷に向う峰、熊ケ池の北から地獄谷に入る小沢(登山路の北で登山者の炊事をするユウフレ小屋の沢)からその下流地獄谷の二股までの谷の中各地、森田の沢上流の肌寒沢の中などで、大は俵大から人頭大までで表面に黒い皮膜を見るものが多く、中実は台湾のタコの木の実の表面を示すから、これに沿って風化した時はよく注意しないと角礫質の輝緑岩や輝緑凝灰岩質集塊岩と誤認するとされる。

 同図は、火成岩:塩基性岩類:枕状溶岩の項で、「本地域内の枕状溶岩の産地、産状、外観は芦別岳輝緑凝灰岩の項で示した。後火山作用による曹達溶液の中で輝緑岩がスピライト質化した。枕状の産状を示すのは溶岩の一部であった。他の大部分は暗緑色緻密の玄武岩様の外観を示すし、岩脈を成す斜長石斑晶の著しいものとは野外調査でも区別され、これが芦別岳緑色凝灰岩層中に占める割合ははなはだ大きい。」と記している。


 石渡 明(2002年)によると、「ピクライト質玄武岩」という論文が発表されました.これについては「ピクライトというのは,かんらん石の斑晶を多量に含む玄武岩の一種で,典型的なものはかんらん石を50%以上含みます.かんらん石が20%程度以上で50%以下の場合はピクライト質玄武岩と言います.ただし,かんらん石斑晶が少ない岩石でも,化学分析結果がMgOを12重量%以上含む場合はピクライト(または高Mg玄武岩)と呼ぶことがあります.ピクライトやピクライト質玄武岩は,地下深くのマントルで「かんらん岩」が部分的に溶融してできた初生的なマグマが直接地表に噴出したものである可能性があり,「マントル直送の岩石」として岩石学的に注目されています」と記している。

文責:Taoこと高橋武夫